ファミレスにて

何度も行ったというほどではないけれど、ファミリーレストランというのはおれの好みの場所のひとつだ。夕食どきの忙しい時間をすぎてもまだ様々な客に雑然としていて、騒がしいけれどうるさいというほどではなく、席と席の間の仕切りの背が低いせいか、開放された雰囲気がある。広いガラス窓のむこうを流れる車のヘッドライトをぼんやりと目で追っていると、とがめるような声に邪魔をされた。目の前にいる後輩はもう四五杯目にもなるビールを飲みほしていた。

「先輩、(リア充っていうやつらは)他人の存在なんて信じてないんですよ。聞いたことはあるけど自分の周りにはいないって、思ってるんだ~」

別に飲みに来たわけでもないし安くもない酒をそんなに飲んでどうしようというのだ。おれはリア充という言葉をそういう風に使うのが好きではないこともあって、つっかかる。

「信じてないって、他人を伝説の存在だって思っているっていうことか? 一角獣≪ユニコーン≫のように? 処女の前にしか姿を現さないような存在だと?」

後輩は伝説、それはいいっすね、と行って喜んだ。

リア充が一般人に似ているのはなぜ? それはどちらの言葉も迂遠な自己紹介だっていう側面を持っているからだ。リア充の定義を彼らに訊いてみればみな流暢に答えるがその中身はバラバラだ。別に確固たる意味を伝えようって言葉じゃないのだから当然ではある。ただひとつ、あらゆる定義に共通するのはそれが「自分以外の誰か」を指しているという点だけだ。自分にはない勝利感を、幸福を、暴力性を持ち合わせている、自分には理解しがたい、自分ではない誰か。自分の境界を侵犯しようとする存在(量子重力の変換解釈学とも関係が深い)。なので、リア充を心の中に描写する者は、そこに自分の逆写しを見ていることになる。リア充を他人に語るものは、自分を他人にそれとなく示していることになる。一般人についてももちろん同様で、ただ違う点は、自己と他者との力関係が逆転しているところにある。自分が持っている賞賛すべき/唾棄すべき(だけど自分に帰属するものとして大切に思っている)特殊性を具えていない人間、それが一般人の正体だ。


「けど私はわかる気がするなあ、その話」

同じファミレスで昼食をとりながら件の後輩の話をしてやっていると、思いがけないところで口を挟まれた。俺は黙って相手の言葉の続きを待った。

「私も処女だったから」

「えっ何の話? いや、処女 だった とは、過去形なのか? つまりワズか。ハズビーンだっけ」

「うーん、メイビー?」

「お前まだ高校生だろ。そういうもんなの?」

「普通だよ。内閣府の調査によると、実に女子高校生の五割は経験済みです」

あとで調べたところこれは嘘で、高々三割といったところだった。

「半分で普通だったら、世の中の人間普通は男ってことになっちゃうだろ。フェミニストが許さないぞ」

「処女はステートでしょ(ステータスじゃないよ。ステータスだけど)。性質とは違うから。処女性は一度きりうつろうものだから。失われたら二度と還ってはこないものだから」

「コインドーザーみたいに?」

「そう、コインドーザーみたいに!」

「けどそれに何の関係があるんだ、お前のプライベートなことと」

「私、ユニコーンが見えたの」

「そんな訳あるか」

「男の人には分かんないよ。初潮がきてからだもん」

普通に見えるようになるものなんだよ、登校中とか学校でも見かけることあるよ。みんな見えないふりをしてるけど。今の私みたいに、ホントに見えてない子もいる。電車の中で何もないのに変な姿勢をとってる子見たことない?(見たことない)あれは無意識にユニコーンを避けようとして身体をゆがめてるんだよ。ユニコーンなんて言っても結局ただの馬でさ、たまにツノをスカートの中に入れようとするんだよね……。

「分かった、分かった!」

結局その日の勘定はワリカンだった。


「それでショックを受けたんでしょ、先輩」

後輩は新しいエサを見つけたみたいに嬉しそうだ。

「リア充ってそういうものなんです。高校生のころ、何してました? セックスか?」

うーん、遊戯王かな?

「遊戯王かな? って思ったでしょ? 大富豪(大貧民)だよ! 一度買ってしまえば無限に遊べるトランプで、延々大富豪してたんだ!」

ところでお前、まだ同じ話すんの?

「分かってますよ、別の話をしましょう。ねじの回転だ。『天使になった福田くん』なんてどうですか」

その話は知ってるよ。こういう風に始まるやつだろ。

「福田くんはほんとうに醜いやつだった——」

 
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